憧れには近づいて、真似てみるのが近道。【夢の玄関口 原宿①】
- 原宿は夢の玄関口だった
- ペニーレインを目指した中学3年生
- 原宿は何をしているかで見え方が変わる街
- 原宿にいるだけで楽しかった高校時代
- セントラルアパートのポストを見て胸を高鳴らせていた
- 憧れのセントラルアパートに入れたとき
- 全ては真似ることから始まる
原宿は夢の玄関口だった
原宿という街について、どうしても話しておきたい。
僕にとって、原宿という街は、とても重要な場所だ。
高校生のときにカメラマンを目指すようになった僕は、雑誌「コマーシャル・フォト」を熟読し、そこに載っている憧れの人たちの名前をリストアップしていた。
その中でセントラルアパートを知り、原宿に通うようになる。
ここで、まずスタイリストの中村のんさん編著の本を2冊紹介したい。
1冊目は「70s原宿 原風景 エッセイ集 思い出のあの店、あの場所」
原宿に縁深い45人が、70年代の原宿について書いていて、
僕も嬉しいことに、セントラルアパートの中庭のカフェについて寄稿している。
もう1冊は「70’HARAJUKU」
こちらは、70年代前後の原宿を中心とした写真集。
今では大御所となっているカメラマンたちが、撮影した写真が集められている。
写っている人物も、街行く一般の人から、有名人の若い頃、当時から大活躍していた人たちまで、たくさん載っている。
どちらも、僕より少し上の世代の人たちが中心に載っている。
僕が原宿に出会った頃、憧れていた世界の人たちだ。
70年代の原宿は、最先端の街だった。
才能溢れる人たちが集まり、一つの文化を作りあげていた。
今でも伝説のように語り継がれている人や店も少なくない。
そんな原宿と、僕の話を残しておきたい。
どうしても長くなっちゃうので、数回になります。
どうかお付き合いください。
ペニーレインを目指した中学3年生
実は、高校生で原宿に通うようになるより少し前、中学3年生のときにも、原宿を訪れたことがある。
まだカメラマンを目指す前で、きっかけは吉田拓郎さんの「ペニーレインでバーボン」という曲だった。
ペニーレインとは原宿にあるバーの名前で、僕はその曲がとても好きで、実在する店と知り、行ってみたくなったのだ。
初めて足を踏み入れた原宿は、今とはかなり風景が違っていた。
ラフォーレ原宿はまだ存在せず、そこには教会が建っており、同潤会アパートにはまだ人が住んでいた。
目的のペニーレインは、キディランド近くの、カフェ・ド・ロペという、当時では珍しいオープンカフェの横の路地を入ったところに建っていて、隣には、系列のライムライトという店があった。
後に知るのだが、この二店舗はフォーライフレコードの社長、後藤由多加さんが経営していた。
※フォーライフレコード:井上陽水、泉谷しげる、小室等、吉田拓郎、後藤由多加らが設立した会社
さて、めでたく店の前まではたどり着いたが、そこはバー。
中学3年生の僕には敷居が高く、中には入ることが出来ず、外から眺めるだけだった。
結局、ペニーレインを諦めた僕は、表参道の今はなきシェーキーズでたらふくピザを食べ、「コーラとピザってこんなに合うんだ!最高!」と、大変中学生らしい感想を持ち、家路に就いたのだった。
原宿は何をしているかで見え方が変わる街
表参道は、1977年から1997年までの間、休日には歩行者天国となっていた。
歩行者天国が始まった理由は、当時の表参道は、週末になると暴走族が曲乗りしながら行ったり来たりして、それを見にくる人たちも集まって、とんでもないことになっており、彼らを締め出すためだったらしい。
これは、最近知り合った都市計画に携わる人から聞いた。
えー、実は、その曲乗りのバイクの中には、僕もいました。すみません。
原宿を憧れの街として足繁く通う前には、そんなこともしていました。
当時は、そうやってただバイクで往復して立ち去る街だった。
でも、セントラルアパートを知ったときからは、夢の入り口の街となる。
街にはそれぞれの顔があるけれど、訪れる人によっても見えるものは全然違う。
それは当然のことだけど、原宿は特にそれが顕著な街だった。
そこで何をして過ごしているかによって、見え方が全然変わる街というのが、原宿に対する僕の印象だ。
原宿にいるだけで楽しかった高校時代
憧れの世界を近くで感じるため、原宿に通うようになった僕だったが、そこはお金もない高校生、基本はブラブラ歩くだけ。
時々クレープを食べたりしながら、ひたすら色んなお店を見て、歩き回っていた。
それだけでも十分刺激的だった。
竹下通りには、個性的な服屋が並び、オシャレなのか何なのかよくわからないような奇抜な格好をしている人たちがいた。
今までの自分の生活圏では見たことがないような人がたくさんいて、それを眺めるのが楽しかった。
原宿と言えば、やはりファッションだけど、70年代の原宿では、様々なブランドが生まれた。
大手ではなく、少人数がマンションの一室をアトリエとして生み出したものも多く、それらは「マンションメーカー」と呼ばれた。
お金がなくて、買うことは出来なかったけれど、置いてある服を見ているだけでも、楽しかった。
よく覚えているのは「ラストシーン」。
お店は、セントラルアパートの少し先にあり、間口が狭くて、奥に細長い作りだった。
何度か小物なんかをプレゼントに買ったことがある。
最初は小さいお店だったが、次第に人気が出て、竹下通りに移転して広い店を構えていた。
よくご飯を食べていたのは、「ラ ベルテ」というイタリアンレストラン。
竹下通りを抜けたところの交差点を渡り、路地を左に入ったところにある小さな店で、店内には小さなフライパンがたくさんぶら下がっていた。
僕は、ここでパスタの美味しさを教えてもらった。
初めて食べたときは、こんなに美味しいものが世の中にあるんだ!って思った。
店の全メニューを制覇するほど、よく通った店だ。
そして、当時の原宿を語るうえで、欠かせない場所がある。
セントラルアパートの1Fにあった伝説の喫茶店、レオンだ。
モデルや芸能人、業界の人たちが常連客で、店内のあちこちでこなれた会話が繰り広げられているらしいという店だった。
内装は黒で重厚な雰囲気。
ガラス張りだったので、外からは薄っすらと店内の雰囲気を伺うことができた。
一般の人はなかなか入りづらく、高校生だった僕も、通りすがりに店内に視線をやるのが精一杯だった。
その後、めでたく足を踏み入れることになるのだけど、それはもう少し先の話。
そんな風に原宿は、歩いているだけで刺激的な街だった。
人、街、モノ。
そこにある全てのものが、僕の殻を壊してくれた。
セントラルアパートのポストを見て胸を高鳴らせていた
原宿に行くと、必ずセントラルアパートに寄っていた。
とはいっても、居住スペースには入れない。
僕が行けたのは、中庭にあるカフェくらい。
セントラルアパートの地下には小さな店がたくさん並ぶエリアがあり、そこへ入るところに並んで居住スペースへの入り口があった。
入り口には郵便ポストがあり、そこにはコマーシャル・フォトで見かけた人の名や事務所名がたくさん並んでいて、僕はそこを通るたびにドキドキしていた。
自分が目指す人達たちの名前が並んでいる。憧れている世界がすぐそこにある。
そのリアルさにゾクゾクした。
郵便ポストにあった名前の中で、いくつか覚えている方をあげると、
まずは、コマーシャルフォトグラファーの操上和美さん。
当時大人気だったVAN JACKET、Wrangler Gals、SONYなど、様々な広告を手がけていて、僕にとってアイドル的存在だった。
それから、浅井慎平さんの事務所もあった。
水着メーカーのジャンセンのポスターを覚えている人も多いのではと思う。
そして、デビッド・ボウイのジャケット撮影でも有名な鋤田正義さん。
当時から、すごく目立つ存在だった。
僕がスタジオマンをしているときに、スネークマンショーのアルバムジャケットの撮影に入らせてもらったのを覚えている。
ちなみに、デビッドボウイのジャケットのスタイリストは、高橋靖子さんが担当している。
※高橋靖子さん:日本のスタイリスト界の草分けであり、前述の本の中村のんさんの師匠にあたる。「70’HARAJUKU」では、高橋靖子さんと山口小夜子さんの写真が表紙。
ポストの横を通りながら、自分もこうなりたい、こういう人たちと仕事したい、会ってみたいって熱くなっていた。
しみじみ僕はミーハーなんだと思う。
でも、ミーハーってパワーになるんだよね。
憧れのセントラルアパートに入れたとき
そんな風に、ポストを眺めてはワクワクしていた僕だったが、その後めでたく正面からセントラルアパートに入ることになる。
原宿に通うようになってから、1年足らずの出来事だった。
前にもお話した通り、僕は写真学校を中退し、岡野隆一さんの助手となった。
当時はサーフィンブームで、岡野さんのやっていた仕事の一つに「サーフマガジン」という雑誌があった。
ある日、師匠と共に編集部に向かうと、そこはなんと、あのセントラルアパート。
西海岸アドバタイジングという、セントラルアパートにある制作会社の中に、編集部があったのだ。
それはもう驚いた。
でも、感動するというよりは「すげえ、オレ!もう入っちゃったよ!」って、興奮する感じだったかな。
僕の夢が、一つ叶った瞬間だった。
※当時、岡野さんがお付き合いしていた、西海岸アドバタイジングの白谷敏夫さんは、前述の「70’HARAJUKU」のアートディレクターも担当している。
全ては真似ることから始まる
師匠の岡野隆一さんからは、実に多くのことを学ばせていただいた。
直接教えてもらったこともたくさんあるが、僕が勝手に真似をして学んでいたことも多い。
岡野さんは、仕事でセントラルアパートに来ると、1階にあった輸入レコード店に立ち寄り、何枚かのレコードを買うことがよくあった。
それを見ていた僕は、遅くとも1ヶ月以内には師匠と同じものを買っていた。
師匠が、どんなものを聴いているのか知りたかったのだ。
ラリー・カールトンのRoom335
クルセイダーズのSTREET LIFE
トム・スコットのINTIMATE STRANGERSに
スタッフのMore Stuff
などなど。
ジャケットも、今まで見たことがないようなもので、とても格好良かった。
1976年~78年くらいの、フュージョンと呼ばれるジャンルの音楽。
当時は、「クロスオーバー」と呼ばれていたと思う。
僕が初めて触れたジャンルで、日本でも急速に流行っていった。
師匠のしていること、好きなもの、読んでいる本などを観察しては真似をしていた。
当時、師匠は若手売り出し中のカメラマン。その姿は、とにかく刺激的だった。
写真についてももちろん学ばせてもらったけれど、
それ以外で学んだことが、自分の見識をどんどん広げてくれたように思う。
仕事で、師匠の自宅に集合ということがよくあった。
時々、師匠の準備待ちで中に入らせてもらうことがあったのだけど、師匠の家には、個性的なオーディオセットがあった。
マイクロのプレーヤーで、ダイナミックバランスのトーンアーム。
アンプはAGIで、スピーカーは確かJBLの16cmフルレンジ、LE-8T。
ついこの間まで高校生だった男の子からすると、手の届かない憧れの機器。
いつか、自分も手に入れたい!と思って眺めていた。
その後、僕は見事にオーディオマニアとなるんですけど、間違いなく岡野さんの影響です。
自分が憧れるものには近づく。そして真似てみる。
何事もそこから始まります。
ミーハー万歳です。
その方が成長は早い。
原宿という街から、僕は色んなことを吸収した。
師匠からは、数え切れないほどのものを学ばせてもらった。
僕の始まりは、こんな感じでした。
お話はつづきます。
【こちらはYouTubeの動画をブログにしたものです。
元動画はこちら→https://www.youtube.com/watch?v=2-D8AViLZIc
※ブログだけの話もありますので、ぜひ両方お楽しみください。】