LIFE LOG(ホネのひろいば)

環境は自分で作ることができる。【夢の玄関口 原宿②】

 

  

すべてが原宿につながっていった

原宿はクリエイターの集まる街だから、当然といえば当然なのだけど、「あれ、また原宿?」ということが僕の人生には多い。特に初期の頃。

 

に書いたように、初めて写真でお金をいただいた山本寛斎さんの事務所は、表参道から少し入ったところにあった。

小さな仕事ととはいえ、パリコレのための作業を手伝えたことは誇らしく、撮影した写真を渡しに事務所を訪ねたときは、少しだけ憧れの世界に近づけたようで、胸が高鳴った。

 

そして、独立前に助手をしていた篠原邦博さんの事務所も原宿。

助手をしていた3年間、僕は毎日のように、原宿に通っていた。

休みの日も事務所に行き、暗室でテストプリントをしていた。

早朝から深夜まで、あらゆる原宿の顔を見ていたかもしれない。

定食屋や蕎麦屋など、顔馴染みの店も増えていった。

 

独立して初めての仕事は、とんねるずのレコードジャケットというもしたけれど、そのレコード会社はビクター音楽産業(現:ビクターエンタテインメント)で、本社は原宿。

とんねるずの仕事は、その後もセカンドアルバムのジャケットや、コンサート関係など、彼らがポニーキャニオンに移籍するまでやっていたので、たびたび原宿に足を運んだ。

そして、ビクターの人との打ち合わせで、僕はあの伝説の喫茶店、レオンに初めて入ることになる。

通りすがりに中を覗くだけだった店。憧れの人たちが通う店。

通い慣れた客のように、涼しい顔をしていたけれど、内心は「とうとう俺もここに!」と、ガッツポーズしてた。

 

そんなレオンの常連客だったという糸井重里さんの事務所は、僕の原宿の憧れの象徴、セントラルアパートにあった。

後々仕事を一緒にさせてもらうことになるのだけど、そのときは、南青山の広い事務所に移られていた。しかし、南青山も原宿から目と鼻の先。

糸井さんと初めて会ったのは、西武百貨店の撮影に入らせてもらった、スタジオマンのとき。

当時から大活躍されていたので嬉しかったけど、自分の仕事相手として会えたときは、感激もひとしおだった。

数年前までは、雲の上の人だったのに、リアルに関われる人に変わってゆく。

胸の中が泡立つような高揚感があった。

 

糸井さんとは、色々お仕事をさせてもらったけれど、糸井さんが手がけたゲームソフト「Mother」関連の広告や、ご自身が浅草に出店されたお茶の店のビデオメニューなどが、特に印象に残っている。

大きな仕事が終わると、打ち上げということで原宿のコープオリンピアにある中華料理店、南国酒家に連れて行ってもらったのも懐かしい。

 

あとは、独立直後、無謀にも写真を持たずに営業に行っていたをしたけれど、村瀬秀明さんもその手法で訪ねた内の一人だった。

村瀬さんは、資生堂の広告にカラー写真が登場した時代、多くの仕事を担ってきたアートディレクターで、新米カメラマンの僕にとっては、とんでもなく雲の上の人だった。

けれど、スタジオマン時代に、資生堂の仕事をいくつも見て、そのクオリティの高さに憧れを抱いていた僕は、躊躇なくアポを取り、事務所を訪ねた。

事務所はオリンピアアネックス。セントラルアパートの斜向いにある建物だ。

その場所を知ったとき、「ああ、また原宿なんだな」と思った。

 

村瀬さんは、写真も持たずに突撃した僕を面白がって迎え入れてくれて、その後、仕事をくださりながら、色んなことを教えてくれた。

村瀬さんは、ちょっと口が悪いんだけど、チャーミングでとても良い人だった。

たとえば、僕がモノクロ写真を納品しに行くと、目の前でチェックして、スポッティング(写真の傷や埃の修正)が下手くそだと、ダメ出しをズバズバしてくる。

でも、その後自ら筆を持ち、その作業をやって見せてくれるのだ。

その仕上がりは素晴らしく、どこが傷だったのかまったくわからない。

そして、ボツプリントを持ってきて、手とリ足とリその技を伝授してくれるのだった。

優しい。

おかげで、僕のスポッティング技術はぐんと上達した。

 

当時、村瀬さんはお住まいも原宿で、僕はそこにも何度か呼んでいただいた。

お酒を飲みながら、村瀬さんはデザインや写真、広告の話を何時間もしてくれた。

とても貴重な話ばかりで、その時間は紛れもなく僕の財産になっている。

 

そんな風に、とにかく原宿にまつわる話が多かった。

色んなことが、原宿を中心に集まっていくような不思議な経験がたくさんあった。

僕は、自分に都合良く物事を考えるのが得意なので、「また、原宿じゃん。すげえ!」って、いちいち盛り上がっていた。

今思ったけど、これ、人生を楽しむ小さなコツかも。

小さくても、「おー!すげぇ!」ってなることが続いていけば、人生は素晴らしくなっていく。

 

原宿に引き寄せられていた、あの時代。

そこで見たもの、出会った人、教わったこと、すべてが自分の中の基準を作り上げていった。

 

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環境が人をつくる

「こうなりたい」という目標が出来たとき、たとえそれがその時点での自分からはかけ離れていても、妥協せずにそこを目指す努力をした方がいい。

理想は大きく、日々の目標は小さく達成していくのがいい。

僕は、パルコのポスターを見て、「こういうものを撮る人になる」と決めた。

パルコのポスターは超一流の人が作っている。

ただの高校生からは、とてつもなくかけ離れた目標だ。

でも、僕はぶれずにそれを理想の中心にずっと置いてきた。

それを基準に、全てを考えてきた。

その世界へ近づくこと、そこへ身を置くこと。

そうやって環境づくりをしていたことが、後々に生きてきた。

 

僕にとって、原宿に通っていたことが、環境づくりの始まりだった。

当時、その自覚はなかったが、間違いなくそうだ。

環境づくりとは、自分のなりたいもので身の回りを固めていくこと。

学生時代は、ただ街を歩くことしか出来なかった。

でも、その時点での自分でできることをやっていた。

街の空気を感じ、歩く人を見て、自分も将来この街の住人なるんだとイメージしていた。

それが、僕の環境づくりの一番最初の段階だったと思う。

 

環境の影響力は、とても大きい。

その作用は、意志を上回ると考えた方がいい。

自分の環境には、自覚的になった方がいい。

 

流れに身をまかせるのが悪いというわけじゃないけれど、

潮流を見て、自覚的に流れに乗ることと、ただ流されることは、大きく違う。

 

どの場に身を置くか。

どう人と関わるか。

どんな服を身にまとい、どんな言葉を発するか。

そんな小さなことが、自分の環境を作っていく。

 

何となく人生がうまくいかないなあというとき、人はどうしても環境のせいにしたがる。

環境とは自分を取り巻くもの。

家、両親、友人、職場、住む街、自分の周りにあるもの全てだ。

生まれてしばらくは環境を選ぶことはできない。

でも、大人になるにつれ、環境は選ぶことができる。

それに気づけるかどうかが大事だ。

 

今、あなたの毎日が心地良いなら、それでいい。

自然と環境を整えてきたのだと思う。

でも、もし耐えられないような気持ちを抱えているなら、

まず「環境は自分で整えることができる」という自覚を持って欲しい。

自分を心地よい方向に持っていって欲しい。

それがどれだけ大切なことか気付いて欲しい。

 

大人になったら、誰もあなたのために環境を整えてくれたりはしない。

でも、それは自分で選ぶことができるということ。

自分の進みたい方向、心地よいと感じるもので、周りを整えていく。

職場、住む街、一緒にいる人、毎日の習慣、それらが環境を作り、環境が自分を作っていく。

 

途中でちょっとでも違うなと思ったら、修正すればいい。一旦立ち止まればいいし、止めてもいい。それも、自分で選べることだ。

 

一流のものに触れること

少し話が大きくなってしまったけれど、環境が人をつくるのは間違いない。

僕は、原宿からそういうことを教えてもらった。

あの街にいる人から。あの街の空気から。歩く人の姿から。

 

自分が目指す世界の一流に、どんどん触れる機会をつくろう。

直接会ったり触れることが難しくても、目にする機会を増やそう。

何かを習うなら、自分が好きだと思えるものを作っている人に習おう。

写真でいえば、どんな写真を撮っているのか、それは自分の好きな写真なのか、どんな仕事をしてきたのか、どういう人柄なのか、よく調べて納得いく人に習った方がいい。

それも、自分で環境を整えることの一つ。

そういう意味では、写真は好きじゃなくても、世の中でめちゃくちゃ定評のある人に習うとかはありかも知れない。

とにかく、どんな人に習うのがいいのか自覚的になることは大事だ。

これも環境づくりの一つとなる。

 

僕は、よく「人生のキャスティング」という言葉を使う。

人生の登場人物は自分が決める。

そのキャスティングは叶うこともあるし、残念ながら叶わない場合もある。

親兄弟のように、あらかじめ用意されたキャストは、ごく一部だ。

誰と共に時間を過ごすのか。

人生のキャスティングは、環境づくりで一番重要なことだ。

 

原宿から認められたような気分だった

前回のブログで紹介した本、「70s原宿 原風景」に出てくる人たちは、70年代から現在まで活躍されている素晴らしい方ばかりだ。

 

そんな人たちと僕は、立場は違えど、原宿という街で、同じ空気を吸い、同じものを見ていたのかと思うと、なんと光栄なことだと思う。

この本の目次を見て、自分と先輩たちの名前が並んでいるのを見たときは、めちゃくちゃ嬉しかったし、なんだか原宿に認めてもらえたような気持ちになった。

 

セントラルアパートから始まった原宿への思い。

僕にとって、いつまでも夢の玄関口。

今でも通るたびに胸がキュンとする。

当時のワクワクした気持ちや、大変だったこと、そんなことが一瞬にして蘇る。

「ただいま」って言いたくなる街。

それが、僕にとっての原宿です。

 

【こちらはYouTubeの動画をブログにしたものです。
元動画はこちら→https://www.youtube.com/watch?v=8ygfH9nSpek
※ブログだけの話もありますので、ぜひ両方お楽しみください。】