伝説のアートディレクター。【僕が見た石岡瑛子・前編】
石岡瑛子というアートディレクター
また、この話をするけれど、僕がカメラマンを目指すきっかけになったのは、パルコのポスターだった。
このポスターのアートディレクターは、石岡瑛子さんという人物。
70年代から80年代にかけて、パルコのポスターをずっと手掛けてこられたので、ある年齢以上の方は、きっと知っているものがあると思う。
石岡さんは、世界的なアートディレクターであり、デザイナーだ。
僕は、ポスターに衝撃を受けてから10年もしないうちに、幸運にも石岡さんと会うことになる。
石岡さんとの交流で学んだことは、いまでも僕の中にしっかりと残っている。
石岡さんが、その名を世界に知られることになったきっかけは、フランシス・フォード・コッポラとジョージ・ルーカスが製作総指揮の、「ミシマ」という三島由紀夫を題材にした映画だった。
この映画の美術監督で、石岡さんは高い評価を受け、その後、コッポラ監督の映画「ドラキュラ」の衣装デザインで、アカデミー賞を受賞する。
石岡さんの仕事には、有名なものがたくさんあるが、その中で僕が特に好きなのが、マイルス・デイヴィスのアルバム『TUTU』のジャケットのデザインだ。
撮影は、アーヴィング・ペン。
この二人の奇跡の出会いを作り、素晴らしいジャケットを作り上げた石岡さんは、最優秀アルバム・パッケージで、日本人で初めてグラミー賞を受賞する。
これは聞いた話なんだけど、
このジャケットの撮影時、現場でひと悶着あったらしい。
どうやら、マイルス・デイヴィスは、自分の音楽をガンガン流して気分を上げながら撮影をしたいが、アーヴィング・ペンは、静かな環境で集中して撮影をしたいと、二人の希望が正反対になってしまったとのこと。
二人ともなかなか譲らず、撮影は始まらない。
超重鎮同士だから、周りも下手に入ることは出来ない。
そんな中、登場したのが、石岡瑛子さん。
石岡さんは、マイルスに対し、
「あなたは音楽の人。あなたのアルバムのために、ペンが撮影するのだから、ここは彼の意向に従いましょう」と説得。
マイルスが折れて、静かな環境で撮影は行われたらしい。
そうやってできあがった、このアルバムジャケットは超かっこいい。
インパクトがすごい。
おもて面は、浮かび上がるようなマイルスの顔のどアップのみ。
タイトルやアーティスト名も載っていない。
そういった情報は、サイドというか背表紙に必要最小限のみ。
うら面は、トランペットを演奏するときの形をした手の、これまたどアップ。
トランペットはなく、手だけ。
シンプルで強い、石岡さんらしいものだった。
オーラがすごかった
石岡さんと初めてお会いしたのは、僕が、篠原邦博さんの助手をしていたときのこと。
師匠が、石岡さんと仕事をすることになったのだ。
それは、レニ・リーフェンシュタールが撮影した「NUBA」という写真集にまつわる仕事だった。
レニ・リーフェンシュタールは、ドイツ人女性の写真家で、
ヒトラー率いるナチスが政権を握っていた時代に、ベルリンオリンピックの記録映画やナチス党大会の記録映画を撮影していたことから、戦後にナチスの協力者とみなされ非難を受けてしまう。
彼女が、再評価を受けるきっかけとなったのが、アフリカのスーダンに住むヌバ族を、1960年代に約10年間かけて撮影した「NUBA」という写真集。
日本では、1981年にパルコ出版から発売。
石岡瑛子さんは、この写真集の企画構成を担当。
写真集の発売に合わせて行われた、西武美術館での大規模な展覧会の構成も担当した。
この「NUBA」が、NHKの日曜美術館という番組で特集されることになり、石岡さんも出演。
そして、僕の師匠が、その番組の記録撮影の担当となったのだ。
収録中の様子だけではなく、大きく引き伸ばされたプリントで構成されたスタジオのセットなども撮影。
僕は、アシスタントとして撮影に同行し、フィルム現像やプリントなどを行い、仕上げの確認などで、石岡さんの事務所を何度も訪ねるなど、かなり深くその仕事に関わらせてもらった。
僕が、石岡さんと初めて会ったとき、その存在感に圧倒された。
憧れの人という緊張もあったけれど、オーラと迫力がすごかった。
ありがたいことに、石岡さんは僕に良くしてくれて、ご飯に連れて行ってくれたり、色んなことを話してくれた。
僕が初めて石岡さんとお会いしたのは、80年代前半。
女性の社会進出は、今よりもずっと遅れていた。
そんな中、活躍していた石岡さんは、仕事をする中で、軋轢を感じることが、たくさんあったのだと思う。
詳しくはここに書かないけれど、話をしている中で、女性であるがゆえに、気を張り、不必要な戦いを強いられているように感じる部分があった。
それでも、僕の目に映る石岡さんは、そんなものは跳ね飛ばして、第一線で素晴らしい仕事をし続けていた。
だからこその、あの存在感と迫力だったのではと思う。
石岡さんの事務所で印象的だったこと
石岡さんの事務所で印象的だったことが、いくつかある。
まず、お昼ごはん。
キッチンに、サンドウィッチ用の具材がズラーッと並べられ、スタッフは、各自好きものをパンにはさんでいくスタイル。
そしてみんなで一緒に食べる。
具材は、石岡さん自身が用意することも多かったようだ。
みんなで食卓を囲むので、自然と会話も生まれ、コミュニケーションが深くなる。
石岡さんとスタッフとの距離感は近く、家族のような親密さがあった。
そして、何よりも印象的だったのが、
石岡さんの事務所にあった、校正室だ。
広告が出来上がるまでには、いくつもの工程があるけれど、
その中の一つに、色を確認、決定していく「色校正」というものがある。
試し刷りしたものを確認し、「ここの色は抑える」とか「ここはもっと強く」とか、目指すものが出来上がるまで、印刷会社とやり取りをして、細かく調整していく作業だ。
石岡さんの事務所には、
その作業するために、色が正しく見える照明が備え付けられた、専用の部屋があった。
それまでも、色んなデザイナーの事務所を見たことがあったけれど、あそこまでちゃんと整えられた校正室がある所は、初めてだった。
あの部屋には、石岡さんの仕事に対する姿勢がよく表れていたように思う。
正しく良いものを仕上げるには、何が必要なのか。
そのために出来ることを、一つ一つ丁寧に行っていた。
センスや知識があるだけではない。
環境にまで細かく気が配られていた。
あと、猫がいて、事務所内をうろちょろしてました。
短毛で、しっぽが長い猫でした。
それも、印象的だった。
アートディレクターの仕事とは
はじめの方で述べたように、石岡さんは、シンプルで強いものを作っていた。
パルコのポスターもその通りで、
シンプルなキャッチコピーと、パルコのロゴだけの、極限まで不要なものを削ぎ落としたデザインだった。
シンプルだからこそ、ごまかすことはできず、力を持った写真と言葉がなければ、成り立たないものだった。
だから、石岡さんにとって、キャスティングこそが、アートディレクターとしての最大の仕事だったのではと想像する。
誰が、撮るのか。
誰が、言葉を操るのか。
僕が、最初に惹かれたパルコのポスターは「わが心のスーパースター」だけど、もう一つ強烈に覚えているものがある。
それは、横長のサイズで、パンキッシュな外国人の若者が5~6人、横一列に並んで立ち、右端に縦に大きく赤い文字で「宿愚連若衆艶姿(ヤサグレテアデスガタ)」と、コピーが入っているもの。
シンプルな背景に、人物が映え、漢字のコピーが目に飛び込んでくる。
ものすごくパワーがあって、引き込まれるものだった。
このポスターのコピーライターは、小野田隆雄さん。
撮影は、十文字美信さん。
十文字さんは、篠山紀信さんのアシスタント出身で、とても強い写真を撮られる方だ。
それが、このポスターにはとても合っていた。
アートディレクターは、日本語に訳すと「美術監督」。
だから、トップに立ち、メンバーを決め、指示を出し、まとめなければいけない。
調教師のようでもあり、指揮者のようでもある。
どんなものを作り上げるのかという確固たるコンセプトを掲げ、
誰に依頼すれば、それが実現できるのかを考え、
起用し、調整し、まとめあげる。
それがアートディレクターだ。
そして、誰と誰を組み合わせれば、素晴らしい化学反応が起こるのかを考えるのが、最重要項目なのだろう。
僕から見て、石岡瑛子さんというアートディレクターは、それを何よりも理解し、実践している方だったと思う。
【こちらはYouTubeの動画をブログにしたものです。
元動画はこちら→https://www.youtube.com/watch?v=OBoGEBnn0w0&t=8s
※ブログだけの話もありますので、ぜひ両方お楽しみください。】