LIFE LOG(ホネのひろいば)

一流の仕事は舞台を観ているようだった。スタジオマン時代に学んだこと。【写真との出会いから独立するまでの話⑤】

 

撮影とは写真を撮るだけではない

 恩師からの連絡で、僕はスタジオマンとして働くことになった。

そこでの経験は、僕に非常に大きな影響をもたらし、運命を大きく変えた。

 

そのスタジオは、元麻布の住宅街の中にひっそりと存在し、スタジオは一面のみ。

プライベート感満載で、とても素敵な所だった。

「写真を撮るために必要な仕事を、全て快適に行えるように」というコンセプトで作られていて、2階には、ミーティングルームやメイクルーム、スタイリストが服を並べるスペースなどがあったのだけど、全てあまり他では見られないほどゆったりと空間がとられ、開放感があった。

快適なミーティングルームからは活発な議論が交わされ、心地良いメイクルームでは美が生まれ、ゆったりとしたスペースで服は丁寧に扱われる。

撮影とは、写真を撮るだけではないということを、僕はそこで教えてもらった。

 

そのスタジオに、面接というか顔見せで初めて訪ねたときが、また強烈な印象だった。

ちょうど撮影が行われていたので、見学をさせてもらったのだけど、サンシャイン・アルパの撮影で、萬田久子さんを金戸聡明さんが撮影していた。被写体も撮影者も一流。

その場に漂う空気までもが違った。

 

そして、なんと偶然にも、スタイリストのアシスタントが、専門学校時代によく遊んでいた服飾科の人だった。

狭い世界とはいえ、まさか初めてスタジオを訪ねた日に再会するなんてと驚いたし、お互いに頑張っているんだなと誇らしい気持ちにもなったのを覚えている。

 

(そのときのことを、僕のもう一つのブログに書いています。→
http://mmps-inc.jugem.jp/?eid=136

金戸聡明さんがお亡くなりになった際の記事です)

 

カーリーヘアのISSEY MIYAKEを着たスタジオマン誕生

スタジオの社長は、これまた面白い人で、僕が正式にそこで働くことになったとき「汚い格好はしないでね」と、言ってきた。

 

僕が今まで見てきたスタジオマンは、とにかく動きやすさ重視で、汚れてもいい格好をしている人ばかりだった。

仕事柄、動き回るし、床に座ったり、ペンキを塗ったり、掃除したりするから、それも当然。

制服として、スタジオの名前が入ったトレーナーやTシャツを着ている所も多かった。

 

けれど、社長は「綺麗なものを作っている環境だから、スタジオマンも綺麗でいないといけない」という考えの持ち主だった。

だから、そのスタジオで働いている人たちは、清潔感があって、みな自前の服で、小綺麗な格好をしていた。

 

話は少し変わり、

スタジオ見学をしていた僕は、ここで働きたいという気持ちがムクムクと湧き上がってくると同時に、焦りを覚えた。

これから先輩となるスタジオマンの人たちを見ていると、とんでもなく仕事ができるのだ。

 

動きに無駄はないし、周りとのコミュニケーションも上手で、人に対するケアもばっちり。あらゆる面ですごい。

「ここに俺が入っても、全然目立てないじゃん」とショックを受けた。

 

働くからには、存在を認められたい。

初めて来た人にも名前を覚えてもらいたい。

でも、先輩たちのように仕事ぶりでは、まだアピールできない。

どうすればいいのか。

 

考えた僕は、次の日、美容室へ飛び込み、カーリーヘアにした。

4時間かかった。

 

そして、ISSEY MIYAKEを着て、スタジオマンとなる。

 

効果はバッチリ。

すぐに名前を覚えてもらえました。

 

仕事ももちろん頑張ったよ。

最終的には、目立った格好した仕事のできるやつ、になれたと思う。

 

ちなみに、ISSEY MIYAKEで働いている友人がいたので、服は安く手に入れることができたのでした。助かった。

 

一流のカメラマンの現場は舞台のようだった

働き始めると、そこで行われている撮影は、超一流のものばかりだった。

資生堂のカレンダー、西武百貨店、有名ブランドの広告撮影などなど。

もちろんカメラマンは巨匠たち、スタッフも一流揃いだった。

コマーシャル・フォトで何度も見た名前の人たちが、僕の目の前で仕事をしていた。

 

巨匠たちの撮影は、まるで芝居を観ているようだった。

モデルとのやりとりすらドラマチックで、一流になる人間というのは、こういう能力があるのかと衝撃を受けた。

現場のスタッフもモデルも、全員がカメラマンの動向を注視している。

誰がこの現場の空気を作っているのか、ひと目で分かる。

 

アートディレクターですら、巨匠には何も言わない。

本来なら、美術監督という立場なのだから、色々指示を出してもおかしくないのだが、そんなことはしない。全部まかせる。だって、そのカメラマンの世界観が欲しくて仕事を依頼しているのだから。思う存分仕事をしてもらえる環境を用意することに注力する。

そして、撮影された写真の良さを壊さないようにデザインをしていく。

一流のカメラマンとはこういう存在なのだというのを、僕はそこで思い知った。

 

「これだ。あのPARCOのポスターの世界が、ここにある」

 

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撮影以外の仕事が僕に教えてくれたこと

スタジオでの仕事は多岐にわたっていたけれど、

その中に、「2階番」というものがあった。

撮影ではなく、2階で打ち合わせをしたり、ご飯を食べたりしているお客様の対応や準備、ヘアメイクさんやスタイリストさんの手伝いなどをする当番だった。

つまり、撮影する前の準備や、撮影の周辺にある仕事を手伝うのだ。

 

そこでは、色んな仕事を垣間見ることができた。

たとえば、ラフを見ながら打ち合わせをしている人たちがいると、漏れ聞こえてくる話から、現場で画が少しずつ変わっていくことがあるんだな、ということがわかったり、スタイリストさんがどうやって服を取り扱うか、メイクさんがどうやってモデルの気分を盛り上げていくのかなどを知ることができた。

 

一枚の写真を作るのに、どれだけ多くの人が関わっているのか、その人たちがどうやって動いているのか。それらを目の当たりにでき、また、カメラマンの目線ではなく、一歩引いた所から見ることができた。

これは、スタジオで働かなければできない経験だったので、とても良い勉強となった。

 

憧れの坂田栄一郎さんとリチャード・アヴェドン

スタジオに、坂田栄一郎さんが初めて来たときのことを、よく覚えている。

 

坂田栄一郎さんは、僕の憧れの人だった。

 

「はじめまして。ここで働くことになりました、水谷と申します」って勝手に挨拶しに行ったら、「よろしく」って返事をしてもらえた。嬉しかった。

 

そのときに、坂田さんと少しお話をする機会があったので、僕は、「写真で一番大事にしていることって何ですか?何を気をつけたらいいですか?」と問いかけた。

 

「白い壁の前にふっと立っているような写真でも、良い写真と悪い写真があるんだよ。それをちゃんと見極めるっていうか、そういう良い写真に被写体を導けるかどうかだね」

 

坂田さんのその言葉を、僕は今でも胸に刻みつけている。

 

これは、後から知ることなのだけど、

坂田栄一郎さんは、リチャード・アヴェドンの助手の経験があった。

リチャード・アヴェドンの撮影風景をテレビか何かで少し見たことがあったのだけど、確かに漂う空気感に同じものを感じた。

 

そして、僕がその後、新たに助手につくことになるカメラマンは、坂田栄一郎さんの二番弟子だった。

 

僕は、リチャード・アヴェドンも好きだったので、初めてその師弟関係を知ったとき、やっぱり好みって出るんだな~と、しみじみ思った。

 

第2の助手人生へ。僕がその人を選んだ理由

僕は、そのスタジオで1年ほど働いた。

 

実は、半年くらい経ったときに、「この人の助手になりたい」というカメラマンを見つけて、本人にお願いもしていた。

けれど、その方も色々と気を使ってくれて、

まずは、スタジオマンを1年間は続けた方が良いということ、

もし、1年経っても自分の所に来たいなら、その時に改めて話をしようということ、

その間に、他に助手につきたい人が現れたら、そちらに行っても構わないことなどを、スタジオの社長も含めて話をしてくれた。

 

でも、僕の決心はすでに固まっていた。1年経ったあと、僕は、もう一度その方にお願いをし、めでたく助手として雇ってもらえることとなった。

 

その方は、まだ専属のアシスタントがいない、若手のカメラマンだった。

 

助手になる場合、王道は、有名カメラマンの元へ行くことだ。

実は、何人かの著名なカメラマンから、アシスタントに来ないかとお誘いをいただいていた。仕事もできてたし、目立っていたから。

でも、それらを断って、僕はその方を選んだ。

 

なぜ、その方の所に行ったかというと、まず撮影現場の雰囲気が良かった。

これが第一の理由。

 

そして、まだ専属のアシスタントがいない状態だったので、自分がチーフというか、その方とマンツーマンで仕事ができることが魅力的だった。

 

有名カメラマンの所には、すでにアシスタントが数人いるのが常なので、自分は一番下からとなる。

そういうところは、一番上のチーフアシスタントが独立したら、セカンドがチーフになり、サードがセカンドになり、またチーフが独立したら…という繰り上げ方式になっている。

 

僕は当時22歳。25歳で独立しようと決めていた。

あと、3年しかない。

サードアシスタントからでは遅かった。

 

だから、これから売り出していく人の元へ行き、一緒に成長しようと決めた。

その人をどこまで伸ばしてあげられるかは、自分の腕にもかかってくる。

そういう状況に身を置き、独立のために必要な全てを吸収したかった。

 

僕は、独立まで3年と決め、

年中無休24時間働くつもりで、その人の元へと飛び込んだ。

 

お話はつづきます。

 

【こちらはYouTubeの動画をブログにしたものです。
元動画はこちら→https://www.youtube.com/watch?v=xXNKH5ovVIw
※ブログだけの話もありますので、ぜひ両方お楽しみください。】