LIFE LOG(ホネのひろいば)

憧れには近づいて、真似てみるのが近道。【夢の玄関口 原宿①】

 

 

 

原宿は夢の玄関口だった

原宿という街について、どうしても話しておきたい。

僕にとって、原宿という街は、とても重要な場所だ。

 

高校生のときにカメラマンを目指すようになった僕は、雑誌「コマーシャル・フォト」を熟読し、そこに載っている憧れの人たちの名前をリストアップしていた。

その中でセントラルアパートを知り、原宿に通うようになる。

 

ここで、まずスタイリストの中村のんさん編著の本を2冊紹介したい。

1冊目は「70s原宿 原風景 エッセイ集 思い出のあの店、あの場所」

原宿に縁深い45人が、70年代の原宿について書いていて、

僕も嬉しいことに、セントラルアパートの中庭のカフェについて寄稿している。

 

もう1冊は「70’HARAJUKU」

こちらは、70年代前後の原宿を中心とした写真集。

今では大御所となっているカメラマンたちが、撮影した写真が集められている。

写っている人物も、街行く一般の人から、有名人の若い頃、当時から大活躍していた人たちまで、たくさん載っている。

 

どちらも、僕より少し上の世代の人たちが中心に載っている。

僕が原宿に出会った頃、憧れていた世界の人たちだ。

 

70年代の原宿は、最先端の街だった。

才能溢れる人たちが集まり、一つの文化を作りあげていた。

今でも伝説のように語り継がれている人や店も少なくない。

 

そんな原宿と、僕の話を残しておきたい。

どうしても長くなっちゃうので、数回になります。

どうかお付き合いください。

 

ペニーレインを目指した中学3年生

実は、高校生で原宿に通うようになるより少し前、中学3年生のときにも、原宿を訪れたことがある。

まだカメラマンを目指す前で、きっかけは吉田拓郎さんの「ペニーレインでバーボン」という曲だった。

ペニーレインとは原宿にあるバーの名前で、僕はその曲がとても好きで、実在する店と知り、行ってみたくなったのだ。

 

初めて足を踏み入れた原宿は、今とはかなり風景が違っていた。

ラフォーレ原宿はまだ存在せず、そこには教会が建っており、同潤会アパートにはまだ人が住んでいた。

 

目的のペニーレインは、キディランド近くの、カフェ・ド・ロペという、当時では珍しいオープンカフェの横の路地を入ったところに建っていて、隣には、系列のライムライトという店があった。

後に知るのだが、この二店舗はフォーライフレコードの社長、後藤由多加さんが経営していた。

 ※フォーライフレコード:井上陽水泉谷しげる小室等吉田拓郎、後藤由多加らが設立した会社

 

さて、めでたく店の前まではたどり着いたが、そこはバー。

中学3年生の僕には敷居が高く、中には入ることが出来ず、外から眺めるだけだった。

結局、ペニーレインを諦めた僕は、表参道の今はなきシェーキーズでたらふくピザを食べ、「コーラとピザってこんなに合うんだ!最高!」と、大変中学生らしい感想を持ち、家路に就いたのだった。

 

原宿は何をしているかで見え方が変わる街

表参道は、1977年から1997年までの間、休日には歩行者天国となっていた。

歩行者天国が始まった理由は、当時の表参道は、週末になると暴走族が曲乗りしながら行ったり来たりして、それを見にくる人たちも集まって、とんでもないことになっており、彼らを締め出すためだったらしい。

これは、最近知り合った都市計画に携わる人から聞いた。

 

えー、実は、その曲乗りのバイクの中には、僕もいました。すみません。

原宿を憧れの街として足繁く通う前には、そんなこともしていました。

当時は、そうやってただバイクで往復して立ち去る街だった。

でも、セントラルアパートを知ったときからは、夢の入り口の街となる。

 

街にはそれぞれの顔があるけれど、訪れる人によっても見えるものは全然違う。

それは当然のことだけど、原宿は特にそれが顕著な街だった。

そこで何をして過ごしているかによって、見え方が全然変わる街というのが、原宿に対する僕の印象だ。

 

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原宿にいるだけで楽しかった高校時代

憧れの世界を近くで感じるため、原宿に通うようになった僕だったが、そこはお金もない高校生、基本はブラブラ歩くだけ。

時々クレープを食べたりしながら、ひたすら色んなお店を見て、歩き回っていた。

それだけでも十分刺激的だった。

 

竹下通りには、個性的な服屋が並び、オシャレなのか何なのかよくわからないような奇抜な格好をしている人たちがいた。

今までの自分の生活圏では見たことがないような人がたくさんいて、それを眺めるのが楽しかった。

 

原宿と言えば、やはりファッションだけど、70年代の原宿では、様々なブランドが生まれた。

大手ではなく、少人数がマンションの一室をアトリエとして生み出したものも多く、それらは「マンションメーカー」と呼ばれた。

お金がなくて、買うことは出来なかったけれど、置いてある服を見ているだけでも、楽しかった。

よく覚えているのは「ラストシーン」。

お店は、セントラルアパートの少し先にあり、間口が狭くて、奥に細長い作りだった。

何度か小物なんかをプレゼントに買ったことがある。

最初は小さいお店だったが、次第に人気が出て、竹下通りに移転して広い店を構えていた。

 

よくご飯を食べていたのは、「ラ ベルテ」というイタリアンレストラン。

竹下通りを抜けたところの交差点を渡り、路地を左に入ったところにある小さな店で、店内には小さなフライパンがたくさんぶら下がっていた。

僕は、ここでパスタの美味しさを教えてもらった。

初めて食べたときは、こんなに美味しいものが世の中にあるんだ!って思った。

店の全メニューを制覇するほど、よく通った店だ。

 

そして、当時の原宿を語るうえで、欠かせない場所がある。

セントラルアパートの1Fにあった伝説の喫茶店、レオンだ。

モデルや芸能人、業界の人たちが常連客で、店内のあちこちでこなれた会話が繰り広げられているらしいという店だった。

内装は黒で重厚な雰囲気。

ガラス張りだったので、外からは薄っすらと店内の雰囲気を伺うことができた。

一般の人はなかなか入りづらく、高校生だった僕も、通りすがりに店内に視線をやるのが精一杯だった。

その後、めでたく足を踏み入れることになるのだけど、それはもう少し先の話。

 

そんな風に原宿は、歩いているだけで刺激的な街だった。

人、街、モノ。

そこにある全てのものが、僕の殻を壊してくれた。

 

セントラルアパートのポストを見て胸を高鳴らせていた

原宿に行くと、必ずセントラルアパートに寄っていた。

とはいっても、居住スペースには入れない。

僕が行けたのは、中庭にあるカフェくらい。

 

セントラルアパートの地下には小さな店がたくさん並ぶエリアがあり、そこへ入るところに並んで居住スペースへの入り口があった。

入り口には郵便ポストがあり、そこにはコマーシャル・フォトで見かけた人の名や事務所名がたくさん並んでいて、僕はそこを通るたびにドキドキしていた。

自分が目指す人達たちの名前が並んでいる。憧れている世界がすぐそこにある。

そのリアルさにゾクゾクした。

 

郵便ポストにあった名前の中で、いくつか覚えている方をあげると、

まずは、コマーシャルフォトグラファーの操上和美さん。

当時大人気だったVAN JACKET、Wrangler Gals、SONYなど、様々な広告を手がけていて、僕にとってアイドル的存在だった。

 

それから、浅井慎平さんの事務所もあった。

水着メーカーのジャンセンのポスターを覚えている人も多いのではと思う。

パルコのチャック・ベリーのポスターも浅井慎平さんの撮影だ。

 

そして、デビッド・ボウイのジャケット撮影でも有名な鋤田正義さん。

当時から、すごく目立つ存在だった。

僕がスタジオマンをしているときに、スネークマンショーのアルバムジャケットの撮影に入らせてもらったのを覚えている。

ちなみに、デビッドボウイのジャケットのスタイリストは、高橋靖子さんが担当している。

 ※高橋靖子さん:日本のスタイリスト界の草分けであり、前述の本の中村のんさんの師匠にあたる。「70’HARAJUKU」では、高橋靖子さんと山口小夜子さんの写真が表紙。

 

ポストの横を通りながら、自分もこうなりたい、こういう人たちと仕事したい、会ってみたいって熱くなっていた。

しみじみ僕はミーハーなんだと思う。

でも、ミーハーってパワーになるんだよね。

 

憧れのセントラルアパートに入れたとき

そんな風に、ポストを眺めてはワクワクしていた僕だったが、その後めでたく正面からセントラルアパートに入ることになる。

原宿に通うようになってから、1年足らずの出来事だった。

 

にもお話した通り、僕は写真学校を中退し、岡野隆一さんの助手となった。

当時はサーフィンブームで、岡野さんのやっていた仕事の一つに「サーフマガジン」という雑誌があった。

ある日、師匠と共に編集部に向かうと、そこはなんと、あのセントラルアパート。

西海岸アドバタイジングという、セントラルアパートにある制作会社の中に、編集部があったのだ。

それはもう驚いた。

でも、感動するというよりは「すげえ、オレ!もう入っちゃったよ!」って、興奮する感じだったかな。

僕の夢が、一つ叶った瞬間だった。

 ※当時、岡野さんがお付き合いしていた、西海岸アドバタイジングの白谷敏夫さんは、前述の「70’HARAJUKU」のアートディレクターも担当している。

 

全ては真似ることから始まる

師匠の岡野隆一さんからは、実に多くのことを学ばせていただいた。

直接教えてもらったこともたくさんあるが、僕が勝手に真似をして学んでいたことも多い。

岡野さんは、仕事でセントラルアパートに来ると、1階にあった輸入レコード店に立ち寄り、何枚かのレコードを買うことがよくあった。

それを見ていた僕は、遅くとも1ヶ月以内には師匠と同じものを買っていた。

師匠が、どんなものを聴いているのか知りたかったのだ。

 

ラリー・カールトンのRoom335

クルセイダーズのSTREET LIFE

トム・スコットのINTIMATE STRANGERSに

スタッフのMore Stuff

などなど。

ジャケットも、今まで見たことがないようなもので、とても格好良かった。

1976年~78年くらいの、フュージョンと呼ばれるジャンルの音楽。

当時は、「クロスオーバー」と呼ばれていたと思う。

僕が初めて触れたジャンルで、日本でも急速に流行っていった。

 

師匠のしていること、好きなもの、読んでいる本などを観察しては真似をしていた。

当時、師匠は若手売り出し中のカメラマン。その姿は、とにかく刺激的だった。

写真についてももちろん学ばせてもらったけれど、

それ以外で学んだことが、自分の見識をどんどん広げてくれたように思う。

 

仕事で、師匠の自宅に集合ということがよくあった。

時々、師匠の準備待ちで中に入らせてもらうことがあったのだけど、師匠の家には、個性的なオーディオセットがあった。

 

マイクロのプレーヤーで、ダイナミックバランスのトーンアーム。

アンプはAGIで、スピーカーは確かJBLの16cmフルレンジ、LE-8T。

ついこの間まで高校生だった男の子からすると、手の届かない憧れの機器。

いつか、自分も手に入れたい!と思って眺めていた。

その後、僕は見事にオーディオマニアとなるんですけど、間違いなく岡野さんの影響です。

 

自分が憧れるものには近づく。そして真似てみる。

何事もそこから始まります。

ミーハー万歳です。

その方が成長は早い。

 

原宿という街から、僕は色んなことを吸収した。

師匠からは、数え切れないほどのものを学ばせてもらった。

 

僕の始まりは、こんな感じでした。

お話はつづきます。

 

【こちらはYouTubeの動画をブログにしたものです。
元動画はこちら→https://www.youtube.com/watch?v=2-D8AViLZIc
※ブログだけの話もありますので、ぜひ両方お楽しみください。】

人生の手綱を握っているかどうかが、人の幸福度を左右する。

 

 

やりたいことがあるけど、踏み出せない人へ

やりたいことがあるのに、やらないほうが僕には怖いって話は少し前にしたけど、そこについてもう少し触れておきたい。

 

強烈にやりたいことがある人なら、誰が何と言おうと勝手に動き出しちゃっていると思うので、やりたいことはあるけど踏み出せてなくて、何となく満たされない気持ちを抱えたまま日々を送っている人に向けて書こうと思う。

 

もし、あなたがすでに社会人なら、いきなり仕事を辞めて、やりたいことの世界へ飛び込むようなことは決してすすめません。

僕はそれをやってしまうタイプの人間なんだけど、とても人にはすすめられない。

でも、興味を持てるものがあるなら、まず小さいことからでいいから始めてみる。

もう、これしかないと思う。

 

空いている時間に、必要なものや知識を集め、一日のうち少しでもいいから時間を確保して、実際に手を動かす。

休みに日にはどっぷりそれに浸かることもしてみる。

やりたいことを、あなたの生活の一部にしてみてください。

 

そして、どうせやってみるなら、その道のスペシャリストになるくらいのつもりでやった方が、絶対に人生が面白くなるのでおすすめ。

趣味や楽しみでもいいのだけど、最初からそう決めてしまうと、それ以上にはならないから、もっと踏み込んだ方がいい。

そうすると、まず視点が変わるから、入ってくる情報の量も質も変わる。

取り組んだときの緊張感も違うから、上達度が大きく変わってくる。

その分、人生も大きく動き出す。

 

自分がなりたい姿や行きたい世界を、なるべく具体的に想像してみるのもいい。

でも、その想像図はきっとどんどん変わっていくから、最初はぼんやりとしたものでもいい。

なぜなら、想像できるのは、その時点での自分からの視点や想像力でしかないから。

想像した姿へ近づいていくと、必ず新しいことが見えてくるから、そこで修正を入れて、より具体的な姿を描き、またそこを目指せばいい。

実は、そこにたどり着けるかたどり着けないかは、一番重要なことではなかったりする。

最初から失敗を目指す必要はもちろんないけれど、失敗って、その時点では失敗でも、後でそれが重要な起点になってたりするから、あまり気にしない方がいい。

これは僕の経験上の考え。

でも、やるときはたどり着けると信じて、そのための方法を探して行動をする。

トライアンドエラーの繰り返しでデータを集める。

そうすると、自分がアップデートしていく。

 

この作業は、楽しい。

何が楽しいかって、すべて自分で選んで、決めて、考えて、体を動かすから、その結果も、感じたことも、何もかもが全て身になること。

皆がしているからとか、誰かにしなさいと言われたものではないから、触れそうなほどの実感を持てる。

 

僕も、まだやりたいこと、たくさんあります

僕は還暦だけど、まだこれから色んなことに挑戦しようと思っている。

やりたいこともあるし、やらなきゃいけないこともある。

やれることはたくさんあるけど、きっと諦めることも出てくるだろう。

今までも、色んなものを捨てたり、途中で断念したりしてきた。

 

僕は、音楽の道に進もうと最初は思っていた。

でも、それは早い段階で諦めた。

友人の中には、夢を叶え音楽で生きている人もいる。

今まで世界で活躍するミュージシャンを撮影することもあった。

彼らを撮影するとき、僕は少し嫉妬する。

僕が行けなかった世界。諦めた世界。

カメラマンになったことに一切の後悔はないけれど、

この切ない気持ちは、きっとずっと抱えていく。

でも、そんなしょっぱい気持ちも人生のスパイスだよな~って思える。

それは、今、僕がその後の道で頑張ってきたからだと思う。

 

僕が持っている残り時間は、若い人よりも当然少ない。

けど、未来に向けて動けるのは「今」しかない。

これからの人生の初日は今日。

それは誰でも一緒。

そう考えると、動いてた方がいいよね。

できることはある。

 

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人生の手綱、握ってますか?

結局、人生の手綱をちゃんと自分で握ってきたかどうかが、人の幸福度に大きく影響するのだと思う。

時代背景や個人の性格に左右されるだろうけど、少なくとも僕はそうだ。

 

「やったらできたかも知れない。でもやらなかった」

こんな思いを抱えて、生きていくのは辛い。それに、もったいない。

やってみてダメだったら、「これは自分には向いていなかった」とか「この方法では上手くいかなかった」とか、何かしらの結果が手に入る。

その方がずっといい。

 

もう一度整理して書いてみる。

もし、やりたいことがあるならば、以下の3つをまずやってみて欲しい。

 

①小さいことからでいいので、とにかく動いてみる。

②どうやって動いたらいいのかということを、調べまくる。

③興味のあるものに対して、オタクと言えるくらい詳しくなる。

 

この3つが全てできるようになると、自分の中でそれが当たり前のものになる。

習慣になっていくから、憧れではなくリアルになっていく。

 

あとは、最初はぼんやりとでいいから目標を設定して、そこに向かって一つ一つ積み上げていく。

そうすれば、今、自分の行動がどこにつながっているかがわかるから、モチベーションも保ちやすいし、達成感も得られる。

 

軌道修正、方向転換、路線変更、大いにありです。

 

楽しいですよ。

 

【こちらはYouTubeの動画をブログにしたものです。
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写真の人こそ言葉が大事。誰にでもどこへでもアクセスできる切符。

 

コマーシャル・フォトからあらゆることを学んだ

僕は、パルコのポスターに衝撃を受けたあと、コマーシャル・フォトという雑誌で色んなことを学んだ。

インターネットもない当時、この雑誌は僕にとって超重要な情報源だった。バイブルだったと言ってもいい。それくらい読み込んでいた。

ページをめくれば、自分が目指す世界で活躍している憧れの人たちの名前を知ることができた。

クリエイターたちの名前だけでなく、電通博報堂旭通信社(現ADKホールディングス)に代表される、広告代理店などの企業の存在も、僕はコマーシャル・フォトで知っていった。

一般企業には広報部や宣伝部というものがあり、そこに広告代理店が入って、雑誌やテレビなどで見る広告は作られていくという、広告業界の全体像を僕は徐々に掴んでいった。

 

話は少しそれるけど、当時は必要な情報にアクセスするまでに、本当に手間と時間がかかった。

今ならググって1分でわかるようなことも、辞書をひいたり、目にする情報から推測したりして理解していくしかない。

僕が知りたかったことは、学校の先生に聞いてもわからないようなことばかりだったから、どうすれば必要な情報を手に入れることができるのか、そこがまず最初の関門だった。

だから、コマーシャル・フォトに出会ったときは、僕が探していたのはこれだ!って感動したのを覚えている。

 

写真の人こそ言葉を大事に

僕は最初から広告カメラマンを目指していたけれど、それはやはり最初に衝撃を受けたパルコのポスターの影響がとっても大きい。

僕の基準は、全てあのポスター。

特に、コピーが格好良かった。

 

「わが心のスーパースター」

 

たった一行で心を掴まれた。すごいインパクトだった。

この最高のコピーを書いたのは、サントリーのCMでも有名な長沢岳夫さんという人物だ。

この「コピーライター」という職業も、コマーシャル・フォトで知った。

 

広告には、コピーライターの他にも、グラフィックデザイナー、フォトグラファーなど、大勢のスタッフが関わっている。

トップには全体を指揮するアートディレクターがいるが、もうひとつその上に、クリエイティブディレクターいう役割が存在することがある。

そして、このクリエイティブディレクターをコピーライターが兼任していることがかなりあるのだ。

 

これはつまり、広告というビジュアルがメインの媒体でも、世界観を構築するのには、言葉が非常に大きな役割を持つことを意味している。

 

「はじめに言葉ありき」なんです。

コマーシャル・フォトからは、そんなことも学びました。

 

だから、写真を学ぼうとするとき、写真だけを勉強するだけでは足りない。

言葉も大事にしなければいけない。

 

もし、写真で仕事をするのだったら、言葉はより重要になる。

打ち合わせの段階では、当然写真は存在しないから、自分がどういうものを撮ろうとしているのか、言葉で伝えなければいけない。

イメージイラストなどが用意されることもあるけれど、最終的にイメージが共有できているかを確認するのは、結局言葉。

 

自分の中に言葉をたくさん持っている人は、写真の表現も豊かになる。

これは間違いない。

自分の中に湧き上がってきたものを言葉で表す能力は、写真をやる人間にとっては必須とも言える。

 

これは口が達者でなければいけないということではない。

口下手でも素晴らしい写真を撮る人はたくさんいる。

でも、そういう人は口から出る言葉が少なかったり、たどたどしかったりするだけで、頭の中ではきっと言葉が溢れていると思う。

 

言葉にならないからこそ写真で表現するという考えもあるけれど、

それでも言葉は大事にした方がいい。

いい写真を観ると、語りだすもの。

まとまった文章にはならなくとも、色んな言葉をこちらに投げかけてくる。

 

大切なのは言葉を大事にすること。

感じたものを言葉で表現すること。

相手に伝えようとする気持ちと、

言葉を尽くす努力。

 

僕は、伝えたい気持ちが強すぎて、ついついしゃべり過ぎて反省することもあるくらいです。

 

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カメラがあれば、どこにでも行ける、誰にでも会える。

僕は、写真を撮るのが、好きです。

写真をとりまく世界も大好きです。

でも、僕が写真をやるのは、自分が楽しく生きたいから。

それが、まず一番。

そして、僕にとって、楽しく生きるのに向いている道具が、写真だからです。

 

僕が「写真ってすごい!便利!」って思うところは、

気になる人やモノを見つけたとき、「すみません。撮影させてもらえませんか?」と声をかければ済むこと。

 

こう書いてしまうと、変質者ちっくで誤解されそうだけど、当たらずとも遠からずなのかな。

だって、僕は街中で気になった女性に、声をかけて撮らせてもらったこともあるもの。

もちろん、ちゃんと丁寧に声をかけて、理由を説明して、不作法がないように気をつけました。

そんなときにも言葉はとても大切です。

 

自分が何者なのか。

どうしてあなたに興味を持ったのか。

写真を撮ってどうしたいのか。

それらを言葉を尽くして、相手が納得するまで説明をする。

相手がメリットを感じられるように説得する。

そして、撮ってもらえて良かったと思えるような写真を撮る。

 

とにかく写真をやっているだけで出会いが広がる。

誰かに会ったり、どこかへ行ったりする理由を自然に持つことができる。

魔法の切符みたいって、よく思う。

仕事となれば、より一層会える人の幅も行ける場所も広がる。

僕も、ずっと気になっていた人に会えたり、普通の人が入れないような場所へ行ったり、写真のおかげで貴重な経験がたくさんできた。

 

写真さえやっていれば、生きている人で会えない人はいないんじゃないかな。

本気で会おうとさえ思えば。

どんな重要人物でも、しかるべきところにアプローチをかけ、どうしても撮りたいと伝え、自分の撮り手としての実力と、撮影の必要性が認められれば、きっと撮れると思う。

絶対とは言えなくとも、可能性はかなりある。可能性って、あるだけで上等。

あとは動いて形にするだけ。

あ、ここでも言葉は大事な役割を担うね。

撮りたい相手を口説き落とすのは、それまでの実績と心からの言葉です。

 

人によって写真を撮る理由は色々だと思うし、なんだっていいと思う。

僕は、自分が楽しく生きるため。

好奇心旺盛で思い出大好きの僕には、ぴったりの道具。

 

写真があれば、会いたい人に会え、行きたいところへ行ける。

溢れるほどの思い出を一枚の写真に込めることができる。

それを人と分かち合うことができる。

写真はそういうことにすごく向いている。

 

写真は、必ずレンズの前にその瞬間の現実が置かれる。

常に、自分の外側の世界がそこにある。

シャッターを押すと、自分と世界との関わりがそこに映し出される。

だから、すごく面白い。

しみじみそう思う。

楽しく生きていくために必要なもの。

 

振り返ると、思い出が全部残ってる。

写真、すごい。

 

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僕が企画を持ち込むときの秘密を教えます。大事なのは、誰とどうプロセスを楽しむのか。

  

最初の事務所は西新宿

25歳で独立し、僕は西新宿に事務所を構えた。

1DKのマンションで、さほど広いわけでも豪華な建物でもなかったけれど、

家賃は、それまでのアシスタントの給与より高かった。

 

前回、お話したように、僕の初仕事はとんねるずのレコードジャケットなのだけど、そのギャラを最初の家賃のあてにしていた。

そうすれば少なくとも1ヶ月は何とかなる。

電話も引いたし、当時は超高価だったFAXもリースした。

その後の費用は、これから仕事をして稼ぐつもりだった。

うーん、完全な見切り発車。良い子はマネをしないでください。

 

写真を持たずに挨拶回り

事務所を立ち上げたあと、僕は独立の挨拶も兼ね、色んな事務所や編集部に営業に回った。

カメラマンの営業なのだから、普通は「私はこんなものを撮っています」と、見せるための写真を持っていくものだけど、僕は最初の挨拶回りに写真を持っていかなかった。

先に発送しておいた独立の挨拶状にも、写真は載せず、文章のみ。

前回のお話の通り、僕は作品撮りをしていなかったから、彼らに見せる写真がまだなかったのだ。

 

そんな状態で営業に行って、何をしたかっていうと、

僕はこういう人間です、こんなことがしてみたいです、写真を通してこんな風に社会と関わっていきたいですとか、そんな風に、自分の事とこれからの展望や夢を話しまくった。

アシスタント時代に付き合いのあったところは、すでに僕のことをよく知ってくれているから、そうやって話をすると、じゃあ規模は小さいけどこんな仕事やってみる?みたいな感じで何本も仕事をもらうことができた。

 

付き合いはあまりなくても、この人とは絶対に仕事したい!と思ったアートディレクターのところにも営業に行った。

そのときも、写真はなし。同じように話をするだけ。

ちょっと気取った言い方をすると、写真じゃなくて、僕を見てもらいに行った。

「今、お見せできる写真はありません。ぜひこれから一緒に作っていきたいです。だから、僕を育ててください」ってお願いをした。

それで、こいつ何か面白そうだから使ってみようとか、何か一緒に考えてみようと思ってもらえればいいなと考えていた。

幸いにも、それで仕事をもらうこともできた。

 

正直言って、このやり方が正しいのかはわからない。

たぶん、多くの人とは違うのかも知れないけど、当時は今より情報が手に入りにくくて、他の人がどうしているのかわからなかったから、自分流でやるしかなかった。

今だったら、さすがに写真は持っていくかな。

当時も、挨拶に行ったとき「あれ、写真は?」って、何度か言われたし。

僕なんかそのときに初めて「ああ、写真って持ってくるものなんだな」って思ったんだから、無知って恐ろしい。

 

でも、当時はそれでいいと思っていた。

そこには、一応僕なりの理由があった。

 

ほとんどの仕事は期待だけで依頼される

これは写真に限らず、ほとんどの仕事についてそうだと思うけど、仕事というのは依頼される段階では、完成品というものはまだ存在していない。

 

写真で言えば、「この広告を撮ってください」と依頼がくる段階では、当たり前だけど、そこに完成品はない。

「この人に撮ってもらおう」という期待で、仕事は依頼される。

通常、その期待値は、それまでの実績によって決まるけど、当時の僕には、まだ実績もなければ、参考になる写真もない。

でも、要は「この人に撮ってもらいたい」と思われればいいんだよね?と僕は思っていた。

だから、そう思ってもらえるように、言葉を尽くした。

それが、今思えば無謀とも思える写真なし営業の理由。

 

この「この人ならできそうだな」って思ってもらえるのは、すごく大事。

仕事はそれですべて決まると言ってもいい。

そして、一度仕事をした相手から、「また一緒に仕事をしたい」と思ってもらえるかどうかが重要。

これで、食っていけるかどうかが決まる。

 

そう思ってもらえるにはどうすればいいのかって話は、今書きだしちゃうと、とんでもない長さになるから、改めてまた伝えていきたい。

 

でも「こうすればいい」と簡単にハウツーで伝えられるものでもないんだよね。

ハウツーだと、どうしても表面的なものになってしまう。

 

本質はひとつ。表し方は人それぞれ。

 

あなたは何の仕事をしていますか?

今までどんな生活を送ってきましたか?

どんな人と仕事をしていますか?

今後、どうしていきたいですか?

 

僕は僕が経験したことを伝えることしかできない。

だから、そこから何かを拾ってもらえたらと思う。

それがこの「ホネのひろいば」です。

 

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僕が企画を持ち込むときの秘密

そんなことを書きながら、さっそくハウツーっぽいものを書いてしまいます。

といっても、ハウツーっぽいけど、本質はそこじゃないって内容なんだけど。

 

僕は生きる上において、プロセスを大事にしています。

仕事の評価はすべて結果で行われて仕方のないことだけど、個人として大事にしているのはプロセス。

誰と一緒に、どう楽しむか、です。

 

独立した頃の営業では「こんな僕です。こんなことがしたいです。あなたと一緒にしたいです」とアピールをした。

そして実際に仕事につなげることができた。

 

そして、これは今でもそうなんだけど、僕は企画の持ち込みをするとき、完成したものを持っていかない。あえて足りない部分というか、穴を残しておく。

実際に自分の中でちょっと迷っていたり、もっと良いプランはないか気になっている部分だったりするんだけど、そういう部分をあえてそのままにして持っていく。

そして、プレゼンしながら相談をする。

ここだけ決めかねてるんですけど、どう思いますか?とか、

この部分が少し弱い気がするんだけど、どうしたらもっと良くなると思いますか?とか、

イデアがあったらぜひ教えてもらいたいって、相談相手に委ねる。

 

そうすると、何が起きるか。

相手が一緒になって、考え始めると、もうそこで僕とその人の化学反応が始まるんだよね。

僕が提案をしに行っているのにも関わらず、相手がその企画を一緒に考える人になってくれる。

 

企画の持ち込みって、なかなか勇気がいるかもしれないけれど、

持ち込まれる側にしてみれば、ある一定以上のクオリティは必要だけど、決して迷惑なことではない。

これは、僕が編集者からも聞いた話です。

週刊誌だったら、月に4冊も作らなきゃいけないし、WEBだと毎日更新も珍しくない。

イデアや企画は常に不足している。

だから、面白いものを思いついたら、飛び込んでみるのはありです。

そのとき、完成した企画を持っていくことも決して悪いことではないけれど、

その場合、相手はその企画を採用するか不採用にするかの選択肢しか持たないから、

相手の好みに合わなかった場合は、ボツになってそこで終わってしまう。

そうではなく、一緒に考えてもらって、相手を巻き込んでしまうのがおすすめ。

 

もちろん元々の企画が魅力的であることは大前提だけど、隙を残しておく。

相手が考えてるうちにワクワクしてくると、何とかこれ形にしたいねっていうモードになる。

そうするともう仕事は始まっている。

一緒に考えたことになるから、企画が実現したとき、二人で一緒に喜べて、達成感を分かち合える。

 

だから、「これ、ロケ場所思いつかないなあー。どこがいいかなあ」っていう一言が僕のプレゼンになったりする。

 

その結果、編集の人と一緒に車でロケハンに行ったこともあるよ。

二人で見つけた、ここだ!って場所で撮影した仕事は、今でもよく覚えてる。

 

誰と、どうやって、プロセスを楽しむか?

「企画には穴を残しておく」。これはハウツーだけど、この話で僕が伝えたいのは、「あなたは誰とどうやってプロセスを楽しみますか?」っていうところ。

 

仕事に限らずだけど、何事も自分や自分の考えに固執しすぎない方がいい。

柔軟性があって、隙間のある、ゆるゆるな自分の方が色んなものが入ってくる。

 

カメラマンの仕事で言えば、自分のアイデアを全てだと思わない方がいい。

どうせね、撮影すれば自分らしさってにじみ出ちゃうから。それが個性ってものだから。

 

良い写真は撮りたい。

でも、そこに至るまでのストーリーというか、どういう風にそこにたどり着くかを僕は楽しみたい。

仕事に限らず、人生もそう考えてる。

 

生まれたからには、いつか死んでしまう。

人生には色んなイベントがあるけれど、そこで自分にとって最良のものを手に入れることだけにこだわるのではなく、それを目指す過程も、最後に何かを手に入れる過程も僕は味わいたい。

誰と共に楽しむかを大事にしたい。

 

「人生、死ぬまでの暇つぶし」。

これが僕のモットーなんだけど、どうせなら楽しく暇つぶししたい。

それが全て。

 

僕はカメラマンをしていているけれど、本当はそれすら重要なことではないです。

カメラマンという職業を通して、自分がどうやって日々を楽しむのか、誰とプロセスを共にするのか、そっちの方が大事。

そんなことを思いながら、毎日を過ごしています。

写真はそれを記録してくれる伴侶です。

 

【こちらはYouTubeの動画をブログにしたものです。
元動画はこちら→https://www.youtube.com/watch?v=zXoOaXWu7io&t=43s
※ブログだけの話もありますので、ぜひ両方お楽しみください。】

 

僕は、ワクワクすることに時間や情熱を注ぎたかった。【写真との出会いから独立するまでの話⑥ 最終話】

 

すべてに首をつっこんだ助手生活

 僕の第2の助手生活は、もうとにかく色んな仕事に取り組んだ。

 

師匠にも、なるべく全ての仕事に関わりたいと、最初に伝えた。

可能だったら打ち合わせも一緒に行きたいし、どういう風に写真を作っていくか一緒に悩みたい、そのために全力でサポートしていきますと。

我ながら図々しかったと思うけれど、幸い師匠はそのやり方を歓迎してくれた。

 

撮影のときの、基本的な流れはこうだ。

まず、打ち合わせに師匠と一緒に行く。

そして、仕事の内容と撮影するヴィジュアルを僕も共有する。

師匠が、こういう風に撮りたいという方針を決めたら、それを実現させる方法を一緒に考える。

プランが固まってきたら、撮影場所や必要な機材を、師匠と相談しながら準備する。

もちろん撮影にはアシスタントとして同行する。

 

そんな風に、仕事の最初から深く関わっていたから、仕上がってきた写真を師匠と確認するときには、喜びや達成感を分かち合うことができ、まるで自分も撮っているかのような感覚を味わえた。

 

最初の頃は、マネージャーもいなかったので、僕が電話対応をしていたし、請求書書きから、経理の手伝いもしていた。

撮影以外のことは全部やってたと思う。

 

これは、他にスタッフがいなかったからこそできた貴重な経験だった。

撮影のことは、他の人の助手についても、サードやセカンドアシスタントで入っていても身につけることはできる。

でも、事務仕事やギャラの交渉、電話応対なんかはどこまで学べるかは微妙。

そして、独立するとき結構重要なのが、このあたりの業務をわかっているかどうかだったりする。

最初は人を雇う余裕もないから、全部自分でやらなければいけないし、スタッフが入ったとしても、このあたりの流れを理解していると、とてもスムーズだ。

 

巨匠のところにいった場合、その仕事ぶりを近くで見ることができるという大きなメリットはある。

でも、存在が大きすぎて、僕がしていたように全てに深く関わることはたぶん難しい。

僕は、独立するために必要なことを全てを、3年で学びたいという目的があった。

そのために、仕事の全てに関わりたいと考えていた。

だから、こういう言い方は失礼かもしれないけれど、まだ完成していない人、これからどんどん伸びていく人の元へ行き、勉強しようと決めていたし、それは僕にとって正解だった。

 

作品撮りは、あえてしなかった。

25歳で独立という目標に向けて、僕は動き回っていた。

休みのときも、僕は事務所に行き、暗室にこもり、

師匠の撮ったネガを、師匠のものを手本に、師匠と同じように焼くという練習を繰り返していた。

 

この時期、作品撮りはほとんどしていなかった。

写真を撮っていなかったわけではないけれど、いわゆる人を集めたり、セッティングしたりなど、凝った撮影は全然しなかった。

お金がなかったというのもあるけれど、正直今の自分が作品撮りをしても、あまり意味はないと思っていた。

 

腕も未熟で、経験不足なカメラマン助手が、同じようにメイクやスタイリストの見習い、そんな見習い揃いの撮影に来てくれるモデルを集めて撮影をしても、正直言って大したものはできない。

 

もちろん見習い同士で撮影をして、一緒に勉強していくという意味はあるかもしれない。

でも、それより、本当の仕事での撮影で、周りは自分よりも経験のあるプロばかりで、失敗することが許されない、責任が強く発生する緊張感の中で撮る方が、身になると考えていた。

 

だから、まず仕事を頂ける立場になれるよう、もっと勉強することがあると思っていた。

師匠と同じレベルで現像ができるようになること、

撮りたい画を生み出すライティングができるようになること。

作品撮りは、これからでもできるけど、師匠の元にいる間は限られている。

今しか学べないことを、全力で吸収したかった。

 

そういう理由で、作品撮りはしていなかったけれど、時々友人を撮ったり、街中で気になる人に声をかけて撮らせてもらったりなどはしていた。

 

これは面白かった。

友人のポートレートを撮る機会なんて、あまりないけれど、

いざ撮影してみると、記念になるし、本人も喜んでくれる。

 

街中で気になる人に声かけて撮るっていうのは、僕の性格ならではかも。

この話はまた別の機会にできたらと思うけれど、

僕は、ストリートスナップってあまり撮らない。

気になった人がいると、どうしても声かけて話したくなっちゃう。

そして、おしゃべりした後に写真撮らせてもらう。

三者的な立場からではなく、関わりをもったものを撮りたい性分なんだろうね。

だから、皆カメラに目線を向けている写真となる。

いきなり親しくなった人は、くだけた笑顔を向けてくるし、

初対面で緊張が残っている人は、それが写真に反映する。

それがいい。そういうのが好きだった。

 

あとは、いつも露出計を持って出歩いていた。

何をするかっていうと、街中や喫茶店なんかで、いいなと思うところがあったら、光を測る。そして、「この数値ならこうだな」とか、頭の中で写真を撮る。

これは、フィルム代も惜しい金欠助手時代ならではって感じ。

でも、こうやって「光を読む」ことは、その後とても役に立った。

数値を読んで、自分の撮る写真を組み立てる。

何となくではなく、目的をはっきりさせ、狙って写真を撮るという訓練になった。

 

こうやって書いてみると、作品撮りはしてなかったけど、

自分なりに考えて練習してたんだなって思う。

 

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とんねるずのファーストアルバムの仕事で独立

25歳も近づき、いよいよ独立を決めた僕は、周囲に声をかけ、ありがたいことにお仕事をいただくことができた。

初めての仕事は、とんねるずのファーストアルバム「成増」のレコードジャケットの撮影。

 

今となっては、とんねるずの存在は揺るぎないものとなっているけれど、当時は、すごい勢いで売れ始めた若手コンビって感じだった。

 

そんなとんねるずは、実は高校の後輩だったりする。

僕が3年の時に、彼らが1年。

特に顔見知りというわけでもなかったけれど、僕は彼らが入っていたサッカー部と野球部に友達が結構いたので、その人たちから「今年の1年に、すごい面白いのが入ってきた」っていう話を聞いて、存在は知っていた。

その後、彼らをどんどんテレビで見かけるようになり、「これが、あのサッカー部と野球部のやつらかあ。すごいなあ。」って思っていた。

僕はお笑いがすごく好きなので、彼らを撮るって決まったとき、すごく嬉しかった。

 

撮影のときに同じ高校だということを明かすと、二人はとても驚いていて、そのあとは、面白かった先生の話や学校の内輪ネタで大盛り上がり。

 

とんねるずとは、その後もセカンドアルバムのジャケット、ファーストコンサートのポスター、コンサート当日の撮影で一緒にヘリコプターに乗り込むなど、共に仕事を何度もさせてもらった。

 

皆知っている存在だから、「とんねるずのレコードジャケットでデビューしました」って言うと、通じるし、ちょっと誇らしい。結果として、とても幸運な初仕事を飾ることができた。

 

心は熱く、頭は冷静に

そうやって、僕は目標としていた25歳でめでたく独立を果たす。

とても嬉しかったけれど、

「ほら、できるじゃん」って感じだった。

 

これは、とても単純な話で、僕はできるようにやってきた。

だから、できて当たり前と思った。

 

もちろん、僕も何もかもスムーズだったわけじゃないよ。

悩むこともあったし、壁にぶつかったこともあったし、

仕事に行けなくなりそうなときもあった。

 

でも、自分の行きたい道は決まっていた。

 

物事って、大切な部分はとてもシンプルだと思う。

 

やりたいことがあったら、

実現する方法を考える。

途中で違うなと思ったら、またできそうな方法を考えて、実行する。

その繰り返し。

 

とはいっても、やりたいことがあっても向き不向きはある。

狭き門で過酷な椅子取りゲームになることもある。

 

それでも、考えてやってみる。

やってみたら、きっと色々わかる。

意外と今まで目が向かなかったことで、才能が開花することもある。

正面突破にトライして跳ね飛ばされても、その先で脇道に気づくかもしれない。

 

自分の中に「これ、してみたい」って思いがあるなら、取り組んでみればいい。

懸命な大人たちは、「ちょっと落ち着いて考えよう。現実を見て冷静になりなさい」とか言ってくるかもしれない。でも、その言葉は半分だけ聞いておけばいい。

心が熱くなれるものに出会えたら、絶対やった方がいい。

冷静になるのは頭だけでいい。

それこそ現実を見極めて作戦を練ればいい。

やるべきことをはっきりさせて、それをこなしていけばいい。

 

試行錯誤すればいい。

方向転換してもいい。

 

うまくいっていないときに、自分の人生は判断しない方がいい。

そうしたら、ただの失敗で終わってしまう。

うまくいっていないときは、軌道修正するチャンス。

うまくいったときに、物事は判断するのがいい。

そうしたら、過去の失敗も後悔も何もかもこのためにあったんだって思える。

 

僕は、ワクワクすることに自分の時間や情熱を注ぎたかった。

だから、それでメシを食う方法を考えた。

そして、今でも何とかギリギリやっている。

 

あのポスターを見たときに湧き上がった熱が、僕を今ここに運んでいます。

 

僕が、写真と出会ってから独立するまでの話はこれで終わり。

思ったより長くなってしまった。

次回からは、仕事をしてきたなかで感じたこと、考えてきたことをお話していこうと思います。

 

引き続き、よろしくお願いします。

 

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【こちらはYouTubeの動画をブログにしたものです。
元動画はこちら→https://www.youtube.com/watch?v=l3kSkxe9Ypw
※ブログだけの話もありますので、ぜひ両方お楽しみください。】

一流の仕事は舞台を観ているようだった。スタジオマン時代に学んだこと。【写真との出会いから独立するまでの話⑤】

 

撮影とは写真を撮るだけではない

 恩師からの連絡で、僕はスタジオマンとして働くことになった。

そこでの経験は、僕に非常に大きな影響をもたらし、運命を大きく変えた。

 

そのスタジオは、元麻布の住宅街の中にひっそりと存在し、スタジオは一面のみ。

プライベート感満載で、とても素敵な所だった。

「写真を撮るために必要な仕事を、全て快適に行えるように」というコンセプトで作られていて、2階には、ミーティングルームやメイクルーム、スタイリストが服を並べるスペースなどがあったのだけど、全てあまり他では見られないほどゆったりと空間がとられ、開放感があった。

快適なミーティングルームからは活発な議論が交わされ、心地良いメイクルームでは美が生まれ、ゆったりとしたスペースで服は丁寧に扱われる。

撮影とは、写真を撮るだけではないということを、僕はそこで教えてもらった。

 

そのスタジオに、面接というか顔見せで初めて訪ねたときが、また強烈な印象だった。

ちょうど撮影が行われていたので、見学をさせてもらったのだけど、サンシャイン・アルパの撮影で、萬田久子さんを金戸聡明さんが撮影していた。被写体も撮影者も一流。

その場に漂う空気までもが違った。

 

そして、なんと偶然にも、スタイリストのアシスタントが、専門学校時代によく遊んでいた服飾科の人だった。

狭い世界とはいえ、まさか初めてスタジオを訪ねた日に再会するなんてと驚いたし、お互いに頑張っているんだなと誇らしい気持ちにもなったのを覚えている。

 

(そのときのことを、僕のもう一つのブログに書いています。→
http://mmps-inc.jugem.jp/?eid=136

金戸聡明さんがお亡くなりになった際の記事です)

 

カーリーヘアのISSEY MIYAKEを着たスタジオマン誕生

スタジオの社長は、これまた面白い人で、僕が正式にそこで働くことになったとき「汚い格好はしないでね」と、言ってきた。

 

僕が今まで見てきたスタジオマンは、とにかく動きやすさ重視で、汚れてもいい格好をしている人ばかりだった。

仕事柄、動き回るし、床に座ったり、ペンキを塗ったり、掃除したりするから、それも当然。

制服として、スタジオの名前が入ったトレーナーやTシャツを着ている所も多かった。

 

けれど、社長は「綺麗なものを作っている環境だから、スタジオマンも綺麗でいないといけない」という考えの持ち主だった。

だから、そのスタジオで働いている人たちは、清潔感があって、みな自前の服で、小綺麗な格好をしていた。

 

話は少し変わり、

スタジオ見学をしていた僕は、ここで働きたいという気持ちがムクムクと湧き上がってくると同時に、焦りを覚えた。

これから先輩となるスタジオマンの人たちを見ていると、とんでもなく仕事ができるのだ。

 

動きに無駄はないし、周りとのコミュニケーションも上手で、人に対するケアもばっちり。あらゆる面ですごい。

「ここに俺が入っても、全然目立てないじゃん」とショックを受けた。

 

働くからには、存在を認められたい。

初めて来た人にも名前を覚えてもらいたい。

でも、先輩たちのように仕事ぶりでは、まだアピールできない。

どうすればいいのか。

 

考えた僕は、次の日、美容室へ飛び込み、カーリーヘアにした。

4時間かかった。

 

そして、ISSEY MIYAKEを着て、スタジオマンとなる。

 

効果はバッチリ。

すぐに名前を覚えてもらえました。

 

仕事ももちろん頑張ったよ。

最終的には、目立った格好した仕事のできるやつ、になれたと思う。

 

ちなみに、ISSEY MIYAKEで働いている友人がいたので、服は安く手に入れることができたのでした。助かった。

 

一流のカメラマンの現場は舞台のようだった

働き始めると、そこで行われている撮影は、超一流のものばかりだった。

資生堂のカレンダー、西武百貨店、有名ブランドの広告撮影などなど。

もちろんカメラマンは巨匠たち、スタッフも一流揃いだった。

コマーシャル・フォトで何度も見た名前の人たちが、僕の目の前で仕事をしていた。

 

巨匠たちの撮影は、まるで芝居を観ているようだった。

モデルとのやりとりすらドラマチックで、一流になる人間というのは、こういう能力があるのかと衝撃を受けた。

現場のスタッフもモデルも、全員がカメラマンの動向を注視している。

誰がこの現場の空気を作っているのか、ひと目で分かる。

 

アートディレクターですら、巨匠には何も言わない。

本来なら、美術監督という立場なのだから、色々指示を出してもおかしくないのだが、そんなことはしない。全部まかせる。だって、そのカメラマンの世界観が欲しくて仕事を依頼しているのだから。思う存分仕事をしてもらえる環境を用意することに注力する。

そして、撮影された写真の良さを壊さないようにデザインをしていく。

一流のカメラマンとはこういう存在なのだというのを、僕はそこで思い知った。

 

「これだ。あのPARCOのポスターの世界が、ここにある」

 

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撮影以外の仕事が僕に教えてくれたこと

スタジオでの仕事は多岐にわたっていたけれど、

その中に、「2階番」というものがあった。

撮影ではなく、2階で打ち合わせをしたり、ご飯を食べたりしているお客様の対応や準備、ヘアメイクさんやスタイリストさんの手伝いなどをする当番だった。

つまり、撮影する前の準備や、撮影の周辺にある仕事を手伝うのだ。

 

そこでは、色んな仕事を垣間見ることができた。

たとえば、ラフを見ながら打ち合わせをしている人たちがいると、漏れ聞こえてくる話から、現場で画が少しずつ変わっていくことがあるんだな、ということがわかったり、スタイリストさんがどうやって服を取り扱うか、メイクさんがどうやってモデルの気分を盛り上げていくのかなどを知ることができた。

 

一枚の写真を作るのに、どれだけ多くの人が関わっているのか、その人たちがどうやって動いているのか。それらを目の当たりにでき、また、カメラマンの目線ではなく、一歩引いた所から見ることができた。

これは、スタジオで働かなければできない経験だったので、とても良い勉強となった。

 

憧れの坂田栄一郎さんとリチャード・アヴェドン

スタジオに、坂田栄一郎さんが初めて来たときのことを、よく覚えている。

 

坂田栄一郎さんは、僕の憧れの人だった。

 

「はじめまして。ここで働くことになりました、水谷と申します」って勝手に挨拶しに行ったら、「よろしく」って返事をしてもらえた。嬉しかった。

 

そのときに、坂田さんと少しお話をする機会があったので、僕は、「写真で一番大事にしていることって何ですか?何を気をつけたらいいですか?」と問いかけた。

 

「白い壁の前にふっと立っているような写真でも、良い写真と悪い写真があるんだよ。それをちゃんと見極めるっていうか、そういう良い写真に被写体を導けるかどうかだね」

 

坂田さんのその言葉を、僕は今でも胸に刻みつけている。

 

これは、後から知ることなのだけど、

坂田栄一郎さんは、リチャード・アヴェドンの助手の経験があった。

リチャード・アヴェドンの撮影風景をテレビか何かで少し見たことがあったのだけど、確かに漂う空気感に同じものを感じた。

 

そして、僕がその後、新たに助手につくことになるカメラマンは、坂田栄一郎さんの二番弟子だった。

 

僕は、リチャード・アヴェドンも好きだったので、初めてその師弟関係を知ったとき、やっぱり好みって出るんだな~と、しみじみ思った。

 

第2の助手人生へ。僕がその人を選んだ理由

僕は、そのスタジオで1年ほど働いた。

 

実は、半年くらい経ったときに、「この人の助手になりたい」というカメラマンを見つけて、本人にお願いもしていた。

けれど、その方も色々と気を使ってくれて、

まずは、スタジオマンを1年間は続けた方が良いということ、

もし、1年経っても自分の所に来たいなら、その時に改めて話をしようということ、

その間に、他に助手につきたい人が現れたら、そちらに行っても構わないことなどを、スタジオの社長も含めて話をしてくれた。

 

でも、僕の決心はすでに固まっていた。1年経ったあと、僕は、もう一度その方にお願いをし、めでたく助手として雇ってもらえることとなった。

 

その方は、まだ専属のアシスタントがいない、若手のカメラマンだった。

 

助手になる場合、王道は、有名カメラマンの元へ行くことだ。

実は、何人かの著名なカメラマンから、アシスタントに来ないかとお誘いをいただいていた。仕事もできてたし、目立っていたから。

でも、それらを断って、僕はその方を選んだ。

 

なぜ、その方の所に行ったかというと、まず撮影現場の雰囲気が良かった。

これが第一の理由。

 

そして、まだ専属のアシスタントがいない状態だったので、自分がチーフというか、その方とマンツーマンで仕事ができることが魅力的だった。

 

有名カメラマンの所には、すでにアシスタントが数人いるのが常なので、自分は一番下からとなる。

そういうところは、一番上のチーフアシスタントが独立したら、セカンドがチーフになり、サードがセカンドになり、またチーフが独立したら…という繰り上げ方式になっている。

 

僕は当時22歳。25歳で独立しようと決めていた。

あと、3年しかない。

サードアシスタントからでは遅かった。

 

だから、これから売り出していく人の元へ行き、一緒に成長しようと決めた。

その人をどこまで伸ばしてあげられるかは、自分の腕にもかかってくる。

そういう状況に身を置き、独立のために必要な全てを吸収したかった。

 

僕は、独立まで3年と決め、

年中無休24時間働くつもりで、その人の元へと飛び込んだ。

 

お話はつづきます。

 

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真剣に取り組めば必ず身になる。独学時代のアルバイトの話。【写真との出会いから独立するまでの話④】

 

独学時代のアルバイト

独学の期間は、生活費のこともあったし、色んなアルバイトもしていた。

その中で、いくつか印象的だったものがある。

 

まず、1つ目は家電量販店の販売員。これは、結構面白かった。

お客様が、どんな目的で来ているのかを見極めて声をかけるのかがコツ。

例えば、初々しい感じのカップルがキョロキョロしているようなら、新婚の可能性が高い。

僕は、サッと近寄り、挨拶と共にメモとペンを渡す。

メモ紙はクリップボードにつけて書きやすくしておく。

「気になるものがあったらリストアップしてみてください。あとでお値段どこまで頑張れるか出してみますので」とだけ伝えて、その場を離れる。

べったり張り付いたりはしない。聞きたいことがあれば向こうから声をかけてくるし、最終的には僕のところに戻ってくる。だって、メモを渡しているんだから。

新婚だと買い揃えるものも多いから、かなりの売り上げになる。

相手のニーズにピタッとはまった接客ができたときは、結果も出るし、気持ちがいい。

物を売ることは、とても緊張感のあるコミュニケーションだと思った。

 

ホテルのドアマンもした。これは、最初のうち嫌だった。

人のためにドアを開けるなんて、何となく悶々とした気分だったことを覚えている。

退屈で、時間が経つのも遅く感じられた。

でも、ある時「お客様にとっては、自分は最初に接するホテルの人間だ。自分がダメだとホテルの第一印象が悪くなってしまうんだ」と気が付いて、ホテルの看板を背負っている自覚が芽生えた。

すると、ドアマンとしてどう振る舞うのが良いのか考えたりして、どんどん仕事が面白くなっていった。

常連客の車や名前を覚え、さり気なく呼びかける。状況を見て、臨機応変に対応する。

いつの間にか退屈なんて感じなくなっていった。

 

どんな仕事でも、真剣に取り組めば面白くなる。

拾えるものは必ずあって、意識して取り組めば、すべてが身になる。

それが、そのときに学んだこと。

 

ちなみに、そのホテルには政治家がよく来ていたのだけど、ドアを開けたら田中角栄が降りてきたときは、めちゃくちゃ驚いた。

 

 

自分でやってみることの大切さ

 大日本印刷の写真部でもアルバイトをしていた。

主に、カタログなどのブツ撮りをするカメラマンの助手をしていたのだけど、僕がついた人は写真部の課長もしていたので、そちらの仕事も忙しく、複写など比較的簡単な撮影のときは、僕に任せてどこかに行ってしまっていた。

そのため、残された僕は一人で悪戦苦闘するのだけど、結果として、それがとても勉強となった。

 

よく覚えているのは、雑誌「流行通信」のアートを紹介する連載の仕事。

絵画や美術品を撮るのだけど、油絵やレリーフなど、表面に凹凸のあるものは、複写のセオリーそのままで撮ると、表面の質感が薄れて良さが消えてしまう。

 

さて、どうすればいいのか。僕は一人で試行錯誤する。

なんせ、課長さん不在だったから。 

 

最終的には、体育館みたいに大きいスタジオの隅に被写体を置き、遠くから巨大な照明をあてるという方法で撮影をした。

その撮影方法が正解なのかは、今でもわからない。

でも、目的は「本物を見たときの感動が得られるような写真を撮ること」だったから、それが達成できれば、方法なんて何でもいいと思っていた。今でもそう思っている。

ブツ撮りに詳しい人に教えてもらえば、早いし楽だけど、自分であーでもないこーでもないとやれたのが、良かった。

 

最初に正解を教えてもらうと、失敗するチャンスを失っちゃうからね。

「これだとうまくいかないんだ」と体でわかる経験は、失敗でしか得られないことだもの。

失敗することができるというのは、すごく贅沢だと思う。

 

そのときに得た「試行錯誤すれば、何かしらの答えは導き出せる」という感触は、今でも僕の中に残っている。

先生がいれば効率はいいけれど、いなくても自分で何とかする。

失敗しても、それは「その方法では上手くいかない」という事を知ることができる。

それがいいんだと思う。

僕にとってはありがたい体験だった。

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恩師からの連絡でスタジオマンに

一年と少しの間、そうやって様々なアルバイトしながら写真を独学していた僕に、最初の師匠を紹介してくれた写真学校の先生から電話がかかってきた。

 

「そろそろ飽きた頃じゃないですか? 」

 

その先生とは、学校を辞めたあとも時々連絡を取り合っていて、近況報告はしていたのだけど、何もかも見抜かれていたようなタイミングでの連絡だった。

印刷会社での仕事はとても勉強になったけど、半年もすると好奇心旺盛で飽き性の僕はそのルーティンワークが辛くなってきていた。

 

「面白いスタジオが人を募集しています。そちらに行ってください」

 

恩師からの電話。

僕は、もちろんそこに行くことになる。

 

お話はつづきます。

 

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